モータースポーツ

かつては創業者のフェルッチオが「レースには出ない」ことを社是としていた。これは「当時のフェラーリがレースを本業として市販車はそのための資金稼ぎと位置づけ、そのためユーザーをないがしろにしていたことに対し反発したため」とも「フェルッチオ・ランボルギーニの息子が、その身を案じていたフェルッチオ・ランボルギーニの反対を押し切る形でレースに夢中になっており、息子を刺激しないため」とも、さらには自身のレース中の事故により大怪我を負った経験によるものとも言われている。

F1

クライスラー傘下に入った後の1989年、ラルースチームへのエンジン供給の形で、F1グランプリ参戦を開始した。

1990年に、メキシコで結成されたチーム「グラスF1」向けにF1マシンを含めて製作を行っていた。エントリーが認められたものの、グラスF1設立を提言したメキシコ人の富豪が資金を持ち逃げしたこともあり、資金が底をつき参戦困難となった。これによる参戦キャンセルによる違約金支払を回避するために、ランボルギーニが実質的なワークス・チーム、モデナに再編成して参戦した。しかし、マウロ・フォルギエリが設計したマシンは時代遅れもはなはだしいもので、目立った成績をあげることはなく、同年に撤退した。エンジンのレイアウトはV12で、独特な高音の排気音であり、それについては同じV12エンジンを搭載したフェラーリへの評価を上回るものだった。

1993年にはエンジンを再設計しパワーアップ、翌年のエンジン供給を考慮してマクラーレンがテストを実施したものの、マクラーレンはプジョーとの提携を選び、この結果ランボルギーニはF1を去ることとなった。

なお鈴木亜久里が日本グランプリで日本人としてはじめて3位入賞した時のエンジンがランボルギーニだった。

供給したチーム

SUPER GT

SUPER GTには、JLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)より、全日本GT選手権の初期から参戦している。当初は漫画家の池沢さとしがドライバーを務めた。参戦時のマシンはカウンタックだったが、1995年~2004年にディアブロ、2004年からはムルシエラゴ、2007年よりガヤルドにて参戦している。これにランボルギーニも全面的に協力しており、このレースのためにディアブロ以降のマシンをワンオフ作成している。2005年からはGT300クラスにエントリーし2006年第1戦にて初優勝した。ランボルギーニがFIAの国際格式レースで優勝したのはこれが初めて。

ル・マン24時間レース

上記のJLOCが、2006年のル・マン24時間レースにメーカーワークスチームとして初参戦。2時間を残してチェッカーを受けられず完走とはならなかったが、クラス8位と健闘した。

Nuova Automobili Ferruccio Lamborghini S.p.a

種類 株式会社
本社所在地 イタリア
サンターガタ・ボロニェーゼ
設立 1962年
業種 自動車製造
事業内容 自動車の製造,販売
代表者 ステファン・ヴィンケルマン,CEO
主要株主 アウディ